本所七不思議めぐり [いい日旅立ち(散策)]
平成25年12月22日(日)
今回の散策は、本所(東京都墨田区)に江戸時代頃から伝わる都市伝説的な七不思議を巡ってみました。
合わせて、散策ルート上で見かけたものをいくつか紹介しています。
※なお、七不思議のスポット説明文は、「下町めぐり.jp」のスポット情報から引用させていただきました。
①かっぱ像・置いてけ堀(墨田区江東橋4-17-1 錦糸堀公園)
錦糸堀で魚を釣って帰ろうとした釣り人が堀の中から聞こえた「おいてけ~」という声に驚き、魚を放り出して逃げたという話で、声の主は河童ではないかといわれています。
現在使われている“置いてきぼり”は、この“置いてけ堀”が転じてできた言葉なんだそうです。
知らない土地で、“置いてきぼり”にされたら怖いですよね。
河童が背負っている魚は、淡水魚の鯉とナマズですね。それから亀の甲羅も背負っている様です。
足の水かきや、とんがったくちばし、耳先など、全体的に理想的な河童の像に思えます。
錦糸堀は埋め立てられ、現在、錦糸堀公園となっています。
②片葉の葦(墨田区両国1丁目付近)
惨劇の名ごりと人は言う。
「片葉の葦」が、駒留橋近くで発見されたのは、お駒殺し事件から、すこし後のことだった。
葉を片側しか付けない葦の群生は、お駒の怨念せいと、本所の町が騒然となったことは、まだ記憶に新しい。
悲劇は、ならず者の留蔵が、お駒という美人の娘に目をつけたことから始まる。
留蔵は執拗に言いよるが、お駒にソデにされ、切れた。逆上した留蔵は、お駒を襲い、片手片足を切り落とし、亡骸を堀に捨てたのだ。
現場に(お駒の怨念の)片葉の葦が群生しだしたころ、留蔵は狂い死にしたそうな。
③置いてけ堀・御竹蔵跡(墨田区横網1丁目付近 )
江戸のむかし、本所界隈は掘割りが多く、魚が釣れた。
ある日、ふたりの男が釣りに興じていた。
「きょうは大漁だぜ」
魚籠(びく)は魚でいっぱいになり、すっかりいい気分。そして、日暮れの帰り道。ゾッとした・・
(おいてけ・・、おいてけ)
堀のなかから、なんとも不気味な声がする。
「は、はやく行こうぜ」
ふたりだから気も強い。声を無視して歩いていたら、金縛りにかけられたように体の自由がきかなくなった。
「やべぇ、逃げろ!」
やっとの思いで、家までたどりついたものの、魚籠をのぞくと・・・魚はなくなっていた。
ここで伝えられている“置いてけ堀”は、錦糸堀ではないかとう説もあるよう様です。
④津軽の太鼓(墨田区亀沢2丁目付近)
むかしから、大名屋敷の火の見櫓は、版木の連打で火事を知らせると決まっている。
それなのに、本所の津軽越中守の屋敷だけは、火の見櫓に「太鼓」がぶらさがっていて、火事のときは太鼓を鳴らす。
なぜ、津軽屋敷だけが「太鼓を許されているのか」、誰も知らない。
でも、こんな話もある。
津軽屋敷の火の見櫓にあるのも、本当は版木なのだ。
しかし、その版木、打ち鳴らすと「太鼓の音がする」。
⑤足洗い屋敷(墨田区亀沢4-15)
本所にある武家屋敷では、深夜になると、血だらけの毛深い大足が、天井をバリバリ突き破り、降りてくる。
「足を洗え~」
大音声でどなり散らすものだから、
おそるおそる家人が、大足の血汚れを洗ってやると、それは、おとなしく天井裏に戻っていく。
この怪奇現象は、夜な夜な繰り返されているらしい。
屋敷のあるじが打った手はことごとく失敗し、家人たちも憔悴きった様子。
もう、大足に命じられるがままのこの屋敷、「足洗い屋敷」と呼ばれている。
付近には、これといった物はありませんでした。
⑥送り提灯(墨田区太平1丁目付近)
提灯を持ってくるんだった。
月が隠れると、本所出村町あたりは、真っ暗闇だ。
おっ、いいあんばいだ。前に提灯の灯りが見える。
こんな夜更けに、誰かは知らねえが、道づれにしてもらうとするか。
待ってくれ~、早足で後を追う。
(おかしい)、灯りが消えた。
なんだ、提灯のやつ、もっと先にいるじゃねえか。
また、足を早めて、追いかけるのだが、(おかしい)近づくと、また、灯りを消しやがる。
おーい、待ってくれよ。おふざけはやめだぜ。
おいおい、もう夜が明けるぞ・・
えッ、ここはどこだ。なんで一面の葦の原なんだよ。
位置的には、大横川親水公園の法恩寺橋付近の様ですが、説明書きなどを見つけることはできませんでした。
以前に撮った、大横川親水公園の擁壁に描かれていた本所七不思議の絵。
[イラスト画の石柱]
○芥川龍之介
作家「芥川龍之介」は、墨田区の本所で育ったそうです。
明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町に生まれ、生後7ヶ月、母が病のために、本所に住んでいた母の兄、芥川道章に引き取られたそうです。
その後、13歳で芥川家の養子になりました。
辰年の辰の日の辰の刻(現在の午前7時から午前9時)に生まれたため、龍之介と命名されたとのことです。
ところで、石柱に書かれている龍之介の「龍」の字が「竜」に?
どうやら、人名漢字で書かれる「龍」の文字は、 常用漢字では、「竜」と書かれる関係からの様です。
○ねずみ小僧
「回向院」という寺院には、ねずみ小僧次郎吉の墓があるため、付近にはこの様な石柱もあるようです。
[猪]
「ももんじや」という鍋料理店に吊るされていた大きな猪です。
説明書きによると、“ももんじ”とは百獣のことで、四足の動物の肉を扱う店を総じて「ももんじ屋」と呼んでいるそうです。
また、猪の肉は、冷え性や疲労回復に効果があるとのこと。
鋭い牙と大きな体格です。こんなのに襲われたら良くて重症です。
“うり坊”は可愛いけど、大人はまさに猛獣です。
[相撲部屋]
両国付近は、やはり相撲部屋が多いです。
相撲は、ほとんど見ないので詳しいことはよく解りませんが、それぞれの部屋や力士たちにはたくさんの歴史があるようです。
○大島部屋
○井筒部屋
○春日野部屋
[史跡]
○塩原太助炭屋跡
「塩原太助」という人は、江戸時代に木炭の粉を丸くこね固めた「炭団(たどん)」と、いうものを商品開発して成功を収めた人だそうです。
最初、自分は練炭(れんたん)を思い浮かべましたが、練炭は明治時代から使われ始め、石炭粉や木炭粉を練って作られたもので、炭団とは似て非なるもののようです。
また、家庭用燃料として豆炭(まめたん)というものがありますが、こちらは大正時代に扱い易く改良開発されて生まれたもので、製法も炭団や練炭と異なる様です。
○本因坊屋敷跡
本因坊家は、囲碁の名門で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で、名棋士を輩出…。
○俵星玄蕃(たわらぼしげんば)
忠臣蔵に登場する架空の人物で、横網町で道場をやってる槍の名士という設定です。
[記念碑]
王貞治氏は墨田区の出身で、昭和28年(1953)、本所中学校に入学した当時は卓球部や陸上部で活躍し、特に陸上部では砲丸(ほうがん)投げの選手として都大会にも出場するほどの実力だったとか。
2年生の時に休部していた野球部を再開させ、3年生の時に墨田区の大会で優勝し、東京都の大会にも出場したそうです。
校門の脇には、自筆で書かれた「気力」の記念碑があります。
[建造物]
○両国橋
七不思議の一つ“片葉の葦”は、両国橋のたもとにありますが、久しぶりに見た両国橋の色が塗り替えられていたのを初めて知りました。
以前は、こんな感じの色でしたが…。
何か、戦車や装甲車に塗られる様な“味気ない色”でした。
吾妻橋の赤や、蔵前橋の黄色、厩橋の緑、駒形橋のブルー、新大橋のオレンジ等々、隅田川に架かる橋の色は鮮やかで綺麗ですが…。
○太鼓櫓(たいこやぐら)
大相撲興行の際に、当日の興行実施を知らせる(寄せ太鼓)や、当日興行の終わりを知らせる(はね太鼓)を打つための太鼓櫓です。
エレベーターを備えた常設の太鼓櫓になっています。
[お寺]
○桃青寺(とうせいじ)
松尾芭蕉は、このお寺に数年間寄宿していたので“芭蕉わらじ脱ぎの寺”と呼ばれていたそうです。
○福厳寺(赤門寺)
門が朱色なので、古くから赤門寺(あかもんでら)と呼ばれていたそうです。
この門は三代将軍徳川家光が、父秀忠の追福(冥福を祈ること)のために寄進したものなのだそうです。
また、赤穂浪士大石内蔵助の縁者である大石三平は、福厳寺の住職を禅の師として親しくしていたこともあり、赤穂義士の吉良家討ち入りの際には、ここ福厳寺を義士の密談場にさせたり、討入りの手引きなどもしたと伝えられています。
[東京おりがみミュージアム]
珍しいおりがみの作品が多く展示されていました。
今回も、約10kmの散策ウォーキングとなりました。
今回の散策は、本所(東京都墨田区)に江戸時代頃から伝わる都市伝説的な七不思議を巡ってみました。
合わせて、散策ルート上で見かけたものをいくつか紹介しています。
※なお、七不思議のスポット説明文は、「下町めぐり.jp」のスポット情報から引用させていただきました。
①かっぱ像・置いてけ堀(墨田区江東橋4-17-1 錦糸堀公園)
錦糸堀で魚を釣って帰ろうとした釣り人が堀の中から聞こえた「おいてけ~」という声に驚き、魚を放り出して逃げたという話で、声の主は河童ではないかといわれています。
現在使われている“置いてきぼり”は、この“置いてけ堀”が転じてできた言葉なんだそうです。
知らない土地で、“置いてきぼり”にされたら怖いですよね。
河童が背負っている魚は、淡水魚の鯉とナマズですね。それから亀の甲羅も背負っている様です。
足の水かきや、とんがったくちばし、耳先など、全体的に理想的な河童の像に思えます。
錦糸堀は埋め立てられ、現在、錦糸堀公園となっています。
②片葉の葦(墨田区両国1丁目付近)
惨劇の名ごりと人は言う。
「片葉の葦」が、駒留橋近くで発見されたのは、お駒殺し事件から、すこし後のことだった。
葉を片側しか付けない葦の群生は、お駒の怨念せいと、本所の町が騒然となったことは、まだ記憶に新しい。
悲劇は、ならず者の留蔵が、お駒という美人の娘に目をつけたことから始まる。
留蔵は執拗に言いよるが、お駒にソデにされ、切れた。逆上した留蔵は、お駒を襲い、片手片足を切り落とし、亡骸を堀に捨てたのだ。
現場に(お駒の怨念の)片葉の葦が群生しだしたころ、留蔵は狂い死にしたそうな。
③置いてけ堀・御竹蔵跡(墨田区横網1丁目付近 )
江戸のむかし、本所界隈は掘割りが多く、魚が釣れた。
ある日、ふたりの男が釣りに興じていた。
「きょうは大漁だぜ」
魚籠(びく)は魚でいっぱいになり、すっかりいい気分。そして、日暮れの帰り道。ゾッとした・・
(おいてけ・・、おいてけ)
堀のなかから、なんとも不気味な声がする。
「は、はやく行こうぜ」
ふたりだから気も強い。声を無視して歩いていたら、金縛りにかけられたように体の自由がきかなくなった。
「やべぇ、逃げろ!」
やっとの思いで、家までたどりついたものの、魚籠をのぞくと・・・魚はなくなっていた。
ここで伝えられている“置いてけ堀”は、錦糸堀ではないかとう説もあるよう様です。
④津軽の太鼓(墨田区亀沢2丁目付近)
むかしから、大名屋敷の火の見櫓は、版木の連打で火事を知らせると決まっている。
それなのに、本所の津軽越中守の屋敷だけは、火の見櫓に「太鼓」がぶらさがっていて、火事のときは太鼓を鳴らす。
なぜ、津軽屋敷だけが「太鼓を許されているのか」、誰も知らない。
でも、こんな話もある。
津軽屋敷の火の見櫓にあるのも、本当は版木なのだ。
しかし、その版木、打ち鳴らすと「太鼓の音がする」。
⑤足洗い屋敷(墨田区亀沢4-15)
本所にある武家屋敷では、深夜になると、血だらけの毛深い大足が、天井をバリバリ突き破り、降りてくる。
「足を洗え~」
大音声でどなり散らすものだから、
おそるおそる家人が、大足の血汚れを洗ってやると、それは、おとなしく天井裏に戻っていく。
この怪奇現象は、夜な夜な繰り返されているらしい。
屋敷のあるじが打った手はことごとく失敗し、家人たちも憔悴きった様子。
もう、大足に命じられるがままのこの屋敷、「足洗い屋敷」と呼ばれている。
付近には、これといった物はありませんでした。
⑥送り提灯(墨田区太平1丁目付近)
提灯を持ってくるんだった。
月が隠れると、本所出村町あたりは、真っ暗闇だ。
おっ、いいあんばいだ。前に提灯の灯りが見える。
こんな夜更けに、誰かは知らねえが、道づれにしてもらうとするか。
待ってくれ~、早足で後を追う。
(おかしい)、灯りが消えた。
なんだ、提灯のやつ、もっと先にいるじゃねえか。
また、足を早めて、追いかけるのだが、(おかしい)近づくと、また、灯りを消しやがる。
おーい、待ってくれよ。おふざけはやめだぜ。
おいおい、もう夜が明けるぞ・・
えッ、ここはどこだ。なんで一面の葦の原なんだよ。
位置的には、大横川親水公園の法恩寺橋付近の様ですが、説明書きなどを見つけることはできませんでした。
以前に撮った、大横川親水公園の擁壁に描かれていた本所七不思議の絵。
[イラスト画の石柱]
○芥川龍之介
作家「芥川龍之介」は、墨田区の本所で育ったそうです。
明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町に生まれ、生後7ヶ月、母が病のために、本所に住んでいた母の兄、芥川道章に引き取られたそうです。
その後、13歳で芥川家の養子になりました。
辰年の辰の日の辰の刻(現在の午前7時から午前9時)に生まれたため、龍之介と命名されたとのことです。
ところで、石柱に書かれている龍之介の「龍」の字が「竜」に?
どうやら、人名漢字で書かれる「龍」の文字は、 常用漢字では、「竜」と書かれる関係からの様です。
○ねずみ小僧
「回向院」という寺院には、ねずみ小僧次郎吉の墓があるため、付近にはこの様な石柱もあるようです。
[猪]
「ももんじや」という鍋料理店に吊るされていた大きな猪です。
説明書きによると、“ももんじ”とは百獣のことで、四足の動物の肉を扱う店を総じて「ももんじ屋」と呼んでいるそうです。
また、猪の肉は、冷え性や疲労回復に効果があるとのこと。
鋭い牙と大きな体格です。こんなのに襲われたら良くて重症です。
“うり坊”は可愛いけど、大人はまさに猛獣です。
[相撲部屋]
両国付近は、やはり相撲部屋が多いです。
相撲は、ほとんど見ないので詳しいことはよく解りませんが、それぞれの部屋や力士たちにはたくさんの歴史があるようです。
○大島部屋
○井筒部屋
○春日野部屋
[史跡]
○塩原太助炭屋跡
「塩原太助」という人は、江戸時代に木炭の粉を丸くこね固めた「炭団(たどん)」と、いうものを商品開発して成功を収めた人だそうです。
最初、自分は練炭(れんたん)を思い浮かべましたが、練炭は明治時代から使われ始め、石炭粉や木炭粉を練って作られたもので、炭団とは似て非なるもののようです。
また、家庭用燃料として豆炭(まめたん)というものがありますが、こちらは大正時代に扱い易く改良開発されて生まれたもので、製法も炭団や練炭と異なる様です。
○本因坊屋敷跡
本因坊家は、囲碁の名門で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で、名棋士を輩出…。
○俵星玄蕃(たわらぼしげんば)
忠臣蔵に登場する架空の人物で、横網町で道場をやってる槍の名士という設定です。
[記念碑]
王貞治氏は墨田区の出身で、昭和28年(1953)、本所中学校に入学した当時は卓球部や陸上部で活躍し、特に陸上部では砲丸(ほうがん)投げの選手として都大会にも出場するほどの実力だったとか。
2年生の時に休部していた野球部を再開させ、3年生の時に墨田区の大会で優勝し、東京都の大会にも出場したそうです。
校門の脇には、自筆で書かれた「気力」の記念碑があります。
[建造物]
○両国橋
七不思議の一つ“片葉の葦”は、両国橋のたもとにありますが、久しぶりに見た両国橋の色が塗り替えられていたのを初めて知りました。
以前は、こんな感じの色でしたが…。
何か、戦車や装甲車に塗られる様な“味気ない色”でした。
吾妻橋の赤や、蔵前橋の黄色、厩橋の緑、駒形橋のブルー、新大橋のオレンジ等々、隅田川に架かる橋の色は鮮やかで綺麗ですが…。
○太鼓櫓(たいこやぐら)
大相撲興行の際に、当日の興行実施を知らせる(寄せ太鼓)や、当日興行の終わりを知らせる(はね太鼓)を打つための太鼓櫓です。
エレベーターを備えた常設の太鼓櫓になっています。
[お寺]
○桃青寺(とうせいじ)
松尾芭蕉は、このお寺に数年間寄宿していたので“芭蕉わらじ脱ぎの寺”と呼ばれていたそうです。
○福厳寺(赤門寺)
門が朱色なので、古くから赤門寺(あかもんでら)と呼ばれていたそうです。
この門は三代将軍徳川家光が、父秀忠の追福(冥福を祈ること)のために寄進したものなのだそうです。
また、赤穂浪士大石内蔵助の縁者である大石三平は、福厳寺の住職を禅の師として親しくしていたこともあり、赤穂義士の吉良家討ち入りの際には、ここ福厳寺を義士の密談場にさせたり、討入りの手引きなどもしたと伝えられています。
[東京おりがみミュージアム]
珍しいおりがみの作品が多く展示されていました。
今回も、約10kmの散策ウォーキングとなりました。
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