文京区本郷の散策 [いい日、旅立ち(ウォーキング)]
平成27年3月20日(金)
今日は地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅を起点に、東京大学を一周する様なルートで散策をしてきました。
3月8日で湯島天神の梅まつりは終わりましたが、境内の梅はまだまだ見頃の様です。
不忍池のほとりでは、雛菊桜(ひなぎくざくら)という種類の桜の花を見ることができました。
3月下旬が開花期で、ソメイヨシノより一足先に見頃を迎える桜です。
東京大学の池之端門脇に「境稲荷神社」があり、神社の裏(北側)に「弁慶鏡ケ井戸」と言う井戸があります。
「銘水」・・・井戸を大切に使いましょう。と、書いてありますが飲めない様です。
歩道側から見た、竹久夢二美術館と弥生美術館の状況です。
弥生式土器発掘ゆかりの地碑
明治17年(1884)、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂鉊蔵の3人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見した。
これが後に縄文式土器と異なるものと認められ、発見地の地名(弥生町)を取り「弥生式土器」と名付けられた。
「ちいさい秋みつけた」などの童謡作詞家、サトウハチロー氏が住んでいた旧居跡が文京区弥生町にあります。
根津小学校の裏手側に「お化け階段」と云われる階段があります。
上りと下りの階段の数が変わってしまう、という噂です。
具体的には、40段あった上り階段が降りる時に数えると一段足りない39段になってしまうのです。
手すりの左右、どちら側の階段でも同じ現象がおきます。
念のため二回、階段の段数を数えながら上り降りしましたが、二回とも下り階段が一段足りません・・・。
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この後は、根津神社へ向かいました。
境内では、梅と桜の花を両方見ることができました。
夏目漱石旧居跡(猫の家)
ここには、イギリスから帰国後の明治36年から3年間住んでおり、この間に『我輩は猫である』を執筆し、この旧居が作品の舞台になった。と言うことです。
この後は、本郷通りの西側エリアの散策です。
石川啄木が下宿した蓋平館(がいへいかん)別館跡
「太栄館」の前に石川啄木の歌碑があります。
「東海の小島の 磯の白砂に 我泣き濡れて 蟹とたはむる」
蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。
今まで自分が思っていた以上に、文豪「石川啄木」は、生活面で苦労をしていたんですね。
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小説家の「樋口一葉」も生活が苦しかった様です。
家計をやりくりするために通ったという旧伊勢屋質店の土蔵です。
本日の散策ルート、約7kmくらい歩いたかな。
文京区は、多くの文人が住み、この地を舞台に数々の名作を著作し、文教の地としての厚みを一層増したと言われています。
また、この様な文人の活躍などから、文の京(みやこ)⇒文京区という区名になったと言うことです。
今日は、明治時代に活躍した文人たちに“ほんの少し”触れることができたという散策でした。
今日は地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅を起点に、東京大学を一周する様なルートで散策をしてきました。
3月8日で湯島天神の梅まつりは終わりましたが、境内の梅はまだまだ見頃の様です。
不忍池のほとりでは、雛菊桜(ひなぎくざくら)という種類の桜の花を見ることができました。
3月下旬が開花期で、ソメイヨシノより一足先に見頃を迎える桜です。
東京大学の池之端門脇に「境稲荷神社」があり、神社の裏(北側)に「弁慶鏡ケ井戸」と言う井戸があります。
「銘水」・・・井戸を大切に使いましょう。と、書いてありますが飲めない様です。
歩道側から見た、竹久夢二美術館と弥生美術館の状況です。
弥生式土器発掘ゆかりの地碑
明治17年(1884)、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂鉊蔵の3人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見した。
これが後に縄文式土器と異なるものと認められ、発見地の地名(弥生町)を取り「弥生式土器」と名付けられた。
「ちいさい秋みつけた」などの童謡作詞家、サトウハチロー氏が住んでいた旧居跡が文京区弥生町にあります。
根津小学校の裏手側に「お化け階段」と云われる階段があります。
上りと下りの階段の数が変わってしまう、という噂です。
具体的には、40段あった上り階段が降りる時に数えると一段足りない39段になってしまうのです。
手すりの左右、どちら側の階段でも同じ現象がおきます。
念のため二回、階段の段数を数えながら上り降りしましたが、二回とも下り階段が一段足りません・・・。
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この後は、根津神社へ向かいました。
境内では、梅と桜の花を両方見ることができました。
夏目漱石旧居跡(猫の家)
ここには、イギリスから帰国後の明治36年から3年間住んでおり、この間に『我輩は猫である』を執筆し、この旧居が作品の舞台になった。と言うことです。
この後は、本郷通りの西側エリアの散策です。
石川啄木が下宿した蓋平館(がいへいかん)別館跡
「太栄館」の前に石川啄木の歌碑があります。
「東海の小島の 磯の白砂に 我泣き濡れて 蟹とたはむる」
蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。
今まで自分が思っていた以上に、文豪「石川啄木」は、生活面で苦労をしていたんですね。
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小説家の「樋口一葉」も生活が苦しかった様です。
家計をやりくりするために通ったという旧伊勢屋質店の土蔵です。
本日の散策ルート、約7kmくらい歩いたかな。
文京区は、多くの文人が住み、この地を舞台に数々の名作を著作し、文教の地としての厚みを一層増したと言われています。
また、この様な文人の活躍などから、文の京(みやこ)⇒文京区という区名になったと言うことです。
今日は、明治時代に活躍した文人たちに“ほんの少し”触れることができたという散策でした。
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