江戸歴史ツーリング [コマジェとの思い出]
平成21年5月9日
今日は、ツーリングで訪れた「現代に残る大名屋敷」に関する紹介です。
江戸には約600の大名屋敷があったとされ、近代以降、政府の官庁や学校、住宅街、公園などに転用された上、敷地も細分化されて、その面影の大半は失われてしまいました。
痕跡や邸内社まで含めれば計70カ所以上の遺跡が都内で確認されているとのことです。
「現代に残る大名屋敷」ガイドマップとバイクナビを頼りに”コマジェ”で江戸歴史のツーリングに出発。
まずは、柳川藩立花家下谷上屋敷内社を訪れました。
(現名称:西町太郎稲荷社、所在地:江東区亀戸3-38-35)
立花家の先祖が太郎稲荷の夢のお告げにより切腹を免れることが出来たということで邸内社となった。
現在は、上屋敷(東上野一丁目周辺)にあったものを、江戸末期、亀戸の天祖神社境内に移し、宇迦之御魂大神(伏見五祭神)を祀っている。
太郎稲荷は、筑後柳川藩立花家の鎮守として上屋敷と下屋敷に 祀られていたもの。
大名屋敷を上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分け、上屋敷は西の丸下、丸ノ内や外桜田に集めておいて、登城や勤番に便利なようにし、中屋敷は外堀の内縁に沿った範囲に配置し、下屋敷は新しく江戸近郊(四谷(よつや)、駒込(こまごめ)、下谷(したや)、本所(ほんじょ)など)に与えた。
大名、旗本が将軍家から屋敷を拝領すると、国元より御分社を勧請し、屋敷の一隅、特に鬼門(東北隅)に邸内社を設けた。
筑後柳河藩の初代藩主である立花宗茂は、忠義も武勇も九州随一と評価され、豊臣秀吉は諸大名の前で「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と、その武将としての器量を高く褒め称えたと言われています。
次は、水戸藩徳川家本所小梅下屋敷遺構を訪れました。
(現名称:墨田公園、所在地:墨田区向島1-3)
隅田川の水を引き入れた庭園があったとされ、明治以降も水戸徳川家邸として利用された。
現在の日本庭園は復興されたもので、往時の姿とは異なる。
庭園の景観は絶景の一言でした。
最後は、宮津藩松平(本庄)家本所石原下屋敷庭園を訪れました。
(現名称:旧安田庭園、所在地:墨田区横網1-12-1)
隅田川の水を取り入れた汐入庭園の一種。
安田邸時代に改変されたが、園内南側の三尊石や瀧石組に往時の面影をとどめる。
庭園の一角には、駒止石と駒止稲荷の史跡が…。
当稲荷神社は徳川三代将軍家光公の時代、隅田川に大洪水があり、時の将軍家光公が深く江東の地の災害を憂慮され、現在の浅草柳橋の辺より旗本阿部豊後守に命じて、江東の地を見舞われました。
豊後守は名馬を駈って濁流渦巻く隅田川を乗り切り、つぶさに江東の地を視察し詳細にその報告をしました。
将軍は篤くその功を賞し、即刻一万石を給り、以来豊後守は旗本より大名に昇進したのです。
その際名馬を止めて休憩した処が現在の旧安田庭園内の神社のところで、今なお駒止石・駒止井戸があります。
当時、横網の里に居住していた郷士加藤善右ヱ門と云う人がその徳を敬い、伏見稲荷大社より稲荷の御霊を移し、以来駒止稲荷様と称し、家運繁栄出世稲荷様として数限りない崇敬者がありました。
のち備前岡山の大名池田公の下屋敷となり、公の守護神として明治中頃まで同屋敷内に鎮座し、引き続き安田善次郎翁の厚く信仰するところとなりました。
小さな稲荷社が多いけれど、小まめに調べると、それぞれに特色ある由来があります。
この後、付近にある横網公園に立ち寄りましたが、ここには関東大震災で亡くなった遭難死者の遺骨が納められた慰霊堂があり、この公園の歴史を物語っています。
犠牲者の霊を弔うために建てた「東京都慰霊堂」の傍らに 、「永田青嵐」の句碑が建てられています。
関東大震災で、焼け野原になった土地から、棕櫚(しゅろ)が芽ぶいているのを見て、全部焼かれても棕櫚は芽を出して、頑張って伸びよう(生きよう)としている、自分も頑張って復興に心血を注ごう! 市民の皆さんも負けずに頑張ろう!!
と思って読んだ句で、永田秀次郎氏は関東大震災時の東京市長で、「永田青嵐」という俳号を持つ俳人であったということです。
今回訪れた4箇所を自宅に帰って改めて色々と調べてみましたが、ふと通り過ぎてしまう様な痕跡や句碑においても、深い想いがあるんだなと感動しました。
今日は、ツーリングで訪れた「現代に残る大名屋敷」に関する紹介です。
江戸には約600の大名屋敷があったとされ、近代以降、政府の官庁や学校、住宅街、公園などに転用された上、敷地も細分化されて、その面影の大半は失われてしまいました。
痕跡や邸内社まで含めれば計70カ所以上の遺跡が都内で確認されているとのことです。
「現代に残る大名屋敷」ガイドマップとバイクナビを頼りに”コマジェ”で江戸歴史のツーリングに出発。
まずは、柳川藩立花家下谷上屋敷内社を訪れました。
(現名称:西町太郎稲荷社、所在地:江東区亀戸3-38-35)
立花家の先祖が太郎稲荷の夢のお告げにより切腹を免れることが出来たということで邸内社となった。
現在は、上屋敷(東上野一丁目周辺)にあったものを、江戸末期、亀戸の天祖神社境内に移し、宇迦之御魂大神(伏見五祭神)を祀っている。
太郎稲荷は、筑後柳川藩立花家の鎮守として上屋敷と下屋敷に 祀られていたもの。
大名屋敷を上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分け、上屋敷は西の丸下、丸ノ内や外桜田に集めておいて、登城や勤番に便利なようにし、中屋敷は外堀の内縁に沿った範囲に配置し、下屋敷は新しく江戸近郊(四谷(よつや)、駒込(こまごめ)、下谷(したや)、本所(ほんじょ)など)に与えた。
大名、旗本が将軍家から屋敷を拝領すると、国元より御分社を勧請し、屋敷の一隅、特に鬼門(東北隅)に邸内社を設けた。
筑後柳河藩の初代藩主である立花宗茂は、忠義も武勇も九州随一と評価され、豊臣秀吉は諸大名の前で「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と、その武将としての器量を高く褒め称えたと言われています。
次は、水戸藩徳川家本所小梅下屋敷遺構を訪れました。
(現名称:墨田公園、所在地:墨田区向島1-3)
隅田川の水を引き入れた庭園があったとされ、明治以降も水戸徳川家邸として利用された。
現在の日本庭園は復興されたもので、往時の姿とは異なる。
庭園の景観は絶景の一言でした。
最後は、宮津藩松平(本庄)家本所石原下屋敷庭園を訪れました。
(現名称:旧安田庭園、所在地:墨田区横網1-12-1)
隅田川の水を取り入れた汐入庭園の一種。
安田邸時代に改変されたが、園内南側の三尊石や瀧石組に往時の面影をとどめる。
庭園の一角には、駒止石と駒止稲荷の史跡が…。
当稲荷神社は徳川三代将軍家光公の時代、隅田川に大洪水があり、時の将軍家光公が深く江東の地の災害を憂慮され、現在の浅草柳橋の辺より旗本阿部豊後守に命じて、江東の地を見舞われました。
豊後守は名馬を駈って濁流渦巻く隅田川を乗り切り、つぶさに江東の地を視察し詳細にその報告をしました。
将軍は篤くその功を賞し、即刻一万石を給り、以来豊後守は旗本より大名に昇進したのです。
その際名馬を止めて休憩した処が現在の旧安田庭園内の神社のところで、今なお駒止石・駒止井戸があります。
当時、横網の里に居住していた郷士加藤善右ヱ門と云う人がその徳を敬い、伏見稲荷大社より稲荷の御霊を移し、以来駒止稲荷様と称し、家運繁栄出世稲荷様として数限りない崇敬者がありました。
のち備前岡山の大名池田公の下屋敷となり、公の守護神として明治中頃まで同屋敷内に鎮座し、引き続き安田善次郎翁の厚く信仰するところとなりました。
小さな稲荷社が多いけれど、小まめに調べると、それぞれに特色ある由来があります。
この後、付近にある横網公園に立ち寄りましたが、ここには関東大震災で亡くなった遭難死者の遺骨が納められた慰霊堂があり、この公園の歴史を物語っています。
犠牲者の霊を弔うために建てた「東京都慰霊堂」の傍らに 、「永田青嵐」の句碑が建てられています。
関東大震災で、焼け野原になった土地から、棕櫚(しゅろ)が芽ぶいているのを見て、全部焼かれても棕櫚は芽を出して、頑張って伸びよう(生きよう)としている、自分も頑張って復興に心血を注ごう! 市民の皆さんも負けずに頑張ろう!!
と思って読んだ句で、永田秀次郎氏は関東大震災時の東京市長で、「永田青嵐」という俳号を持つ俳人であったということです。
今回訪れた4箇所を自宅に帰って改めて色々と調べてみましたが、ふと通り過ぎてしまう様な痕跡や句碑においても、深い想いがあるんだなと感動しました。
2009-05-09 12:00
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